文章を書くことは、昔から嫌いではなかった。
仕事では、顧客の事業計画書を作ったり、依頼を受けてブログの記事を書いたりしてきた。
何を、どう伝えるか。
言葉を選び、文章を組み立てることは、私にとって、それほど苦になる仕事ではなかった。
けれど、小説を書くことは考えたこともなかった。
ある日、一冊の小説を読んだ。
有名な作家の作品だった。
読み進めながら、少し意外な気持ちになった。
物語の構成は、思っていたよりもシンプルだった。描かれているのは、どこか身近に感じられる人々の日常。文章にも、肩の力が抜けたような親しみやすさがあった。
小説というものは、もっと難しいものだと思っていた。
選ばれた才能を持つ人だけが書ける、特別なものだと。
それが、少し違って見えた。
もしかしたら、自分にも書けるのではないか。
そんなことを思った。
今になって考えれば、ずいぶん無謀な思いつきだったのかもしれない。
けれど、そのときは、そう思ったのだ。
それから、しばらく時間が過ぎた。
書いてみたい気持ちはあった。
ただ、何を書けばよいのかわからなかった。
仕事の文章には、書くべきことがある。
伝えたい内容があり、読む相手がいる。そこから言葉を選んでいけば、文章は少しずつ形になっていく。
小説は違った。
誰のことを書くのか。
その人は、どこで、どんなふうに生きているのか。
何もないところから、一人の人間の人生を考える。
それが、思っていた以上に難しかった。
そんなとき、生成AIを使うようになった。
最初は、AIに小説を書いてもらった。
画面に現れた文章を読みながら、物語の流れを追った。
すると、少しずつ気になるところが出てきた。
ここは、違う言葉のほうがいい。
この人物なら、別の行動をするのではないか。
そんなことを考え、AIに伝え、また書き直してもらう。
何度も繰り返すうちに、いつの間にか、物語の中に自分の考えが入り込むようになっていた。
書き方がわからなかったはずなのに、今度は、どう書きたいかを考えている。
おかしなものだと思う。
小説を書き始めてから、日々の暮らしを、以前とは少し違う目で見るようになった。
道ですれ違う人にも、帰りを待つ誰かがいるのだろう。
店先で黙って働く人にも、長い時間をかけて積み重ねてきたものがあるのだろう。
そんなことを考える。
人の人生は、外から見ただけではわからない。
大きな成功も、劇的な出来事もないまま、一日が終わることは珍しくない。
それでも、その人にしかわからない喜びや、誰にも話さなかった後悔がある。
若い頃には、人生というものを、もっと大きな出来事で測っていたような気がする。
けれど、長く生きていると、そうでもないと思うようになる。
思いどおりにならなかったこともある。
間違えたと思う選択もある。
それでも、振り返れば、忘れられない一日がいくつも残っている。
私は、そんな人生を書いてみたい。
特別な人ではなく、どこにでもいる人の、何でもないような日々を。
そして、読み終えた誰かが、自分の歩いてきた道を少しだけ振り返ってくれたら、それでいい。
あの日、一冊の小説を読んで、ふと思った。
自分にも書けるかもしれない。
あれから時間が過ぎ、今、私は物語を書いている。
あのときは、そんなことになるとは思ってもいなかった。
人生には、ときどき、そういうことがある。
何でもなかった一日が、あとになって、違う意味を持ち始める。
あの日も、きっと、そんな一日だったのだと思う。
